596年に建てられた日本初の本格的な寺院・飛鳥寺。
発願は蘇我氏の全盛時代を築いた蘇我馬子。
ゆえに蘇我氏の氏寺でもある。
意外なほど小さな門の前には「飛鳥大佛」と彫られた石柱が建っている。
本来なら、この文字は「飛鳥寺」であるべきはずだが、
そうしない理由はおそらく、現在の寺号が「安居院」だから。
そもそも飛鳥寺は平城京に移されたときに「元興寺」と名を変え、
飛鳥に残った同寺院は「本元興寺」と呼ばれることに。
(その元興寺は「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている)
その後、「本元興寺」は鎌倉時代に落雷で焼失するなどし、
江戸時代まで飛鳥大佛だけが石の台座に残されたままだったそう。
あまりの状態に、いつしかどこぞの夫婦が小さい仏堂を寄進し、
香具山の寺院にいた僧侶が隠居しにきた際、
現在の「安居院」と改め、飛鳥大佛の補修を手がけたという。
本殿へ足を踏み入れると、左右を阿弥陀如来と聖徳太子に臨座・臨立され、
中央にご本尊の飛鳥大佛がどしりと鎮座している。
飛鳥時代の仏師「鞍作止利(くらつくりのとり)」が手がけ、
年代がわかる仏像のなかでは日本最古の仏像とされている。
頭部の額から下、鼻から上の部分と、左耳、右手中央の指3本だけが当時のままで、
過去に被った火災による損傷と風雨等による劣化の激しさが窺える。
とりわけ、飛鳥時代を物語る典型的なアーモンド形の瞳と
印象的なアルカイックスマイルが残っていたのはまさに奇跡としか言い様がない。
さらに本堂の奥には、庫裏の一角を利用して、
寺宝として所有する仏像や文化財の展示スペースが設けられていたり、
きれいに整えられた趣深い中庭を臨むことができる。
本堂奥の回廊から外へ抜けると、思惟殿と呼ばれる観音堂が現れる。
こちらのご本尊は聖観世音菩薩。新西国三十三箇所の札所の一つだ。
そこからさらに西へ歩みを進め、小さな門をくぐって境内の裏手へ抜けると、
視界いっぱいに畑の広がる風景の中に、ポツンと五輪塔が立っている場所へ出る。
その五輪塔が、有名な「入鹿の首塚」である。
稲目、馬子、蝦夷、入鹿と4代にわたって大和の政権を掌握してきた蘇我氏本宗家。
入鹿の代になり、いよいよその専横ぶりが見逃せなくなってきた皇極4年(645年)、
談山神社での談合の末、飛鳥板葺宮にて中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺。
翌日には父・蝦夷を自殺に追い込み、蘇我氏本宗家は滅亡する。
その後、改新の詔を以て大化の改新が行われ、天皇中心の政治へと大きく舵を切ることに。
この首塚に入鹿の首が実際に埋められているか否か定かではないが、
飛鳥板葺宮での凶事の際、はねられた入鹿の首がここまで飛んできたという
真しやかな尾ひれまでついている(たしかに近隣ではあるが…)。
背後に見える甘樫丘の麓は、蘇我氏の邸宅があったとされる場所。
たとえ無惨な御首級だけになっても、権勢を誇示した我が屋敷を臨む
一族縁の飛鳥寺まで戻って来たかったのかもしれないな…と
手前勝手な想像を逞しくすると、そんな荒唐無稽な伝承でさえ
無性に人間臭く思えてしまい、なんだか素直に信じてみたくなった。